ポール・モーリアの思い出 – ピレネーの懐に抱かれて①

雑記


この夏、大切な人と再会した。
南仏の強い陽射しの下、ピレネーの懐に抱かれて眠る大切なあの人と再会した。
からりとした、強い風が吹いていた。

その人の名は、ポール・モーリア

「恋はみずいろ」、「涙のトッカータ」やマジックの定番ソングである「オリーブの首飾り」など素晴らしい楽曲を世に送り続けた有名なフランスの音楽家だった。
日本公演が約1,200回を数えるという、大の親日家でもあった。
そんな彼は、2006年の11月3日に急性白血病でこの世を去った。81歳だった。

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彼とのそもそもの出会いは、母親のお腹の中だった。
母親は若いころポールの追っかけをしていたらしい。
大阪から新幹線で東京公演にかけつけ、時にはポールに手編みのセーターをプレゼントしたというのだから・・・もう、それはそれは凄まじい「追っかけ」ぶりだったのだろう。
私が生まれた1990年。その年も母親はポールのコンサートにいた。そして、私は母のお腹の中にいた。

私が生まれてからも、寝るときの音楽はポール・モーリアだった。
母親がCDをかけない日は、自分から「ポールのCD!!」とねだったらしい。
そして、彼の音楽が流れ始めるとすぐに眠りについたそうだ。
子守唄であり、ご飯であり、あるいはお風呂。無いと生きていけない。
そんな感覚だったのかもしれない。

当時私はピアノを習っていたのだが、先生に「クラシックの曲を弾こう」誘われても私は頑なにポールの曲を弾くことにこだわり続けた。
彼の音楽が大好きだった。何より、彼が大好きだった。

そう言えば、私が初めて外国語を話した相手もポールだった。
私が小学生になった頃だっただろうか。その年も例年通り、ポールの大阪公演に家族で行った。
その時、母親と一緒にオレンジピールのチョコレートをポールに買っていった。
母親が私の手を引いて、彼の楽屋へ連れていったことを今でも覚えている。

「This is chocolate for you. 言うんやで!たかちゃん!」母親は私に何度も念を押した。
今でこそ多少の英文を書けるようになったが、当時の私は英語を学んだこともなく、チョコレートという単語しか理解していなかった。

だから、母親から聞いた通りにマネをした。
「This is chocolate for you.」

ポールが笑った。
「Thank you!」
そう言って、大きな手で頭を撫でてくれたあの感触は今も忘れていない。

ポールの横にいたイレーヌ夫人も
「You are good!!」と言ってくれた。褒められたことが素直に嬉しかった。

そのチョコレート儀式の後、母親は彼らと私の知らない言語(フランス語)で会話をしていた。
そんな母親がちょっぴり羨ましかった。
「自分もしゃべりたいな」母親の背中が大きく見えた。

その後私は中学、高校へと進学しても彼の音楽を聴き続けた。そして、弾き続けた。

(続く)

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